昨日よしりん先生が、その疑問に答える形でブログ『「人類皆兄弟」的な人権はない』を書いた、tasuuさんが、その返信のコメントを上げていたのでご紹介します。
よしりん先生、本当にありがとうございます。
高校生の時に呼んだ戦争論が自分の人生を変えたと思っている人間として、感激しています。
民主主義という病を読み直してみましたので、現時点での私の考えを書かせていただきます。
よしりん先生は、自然権思想が、根本的な庶民の常識からかけ離れていること、また、普遍思想としてグローバリズムにつながり得ることから、警戒心をもっているのだと思いました(間違っていたら、申し訳ありません。)。
私も、自然権などというものは、自分の日本人としての常識とはあまりに、かけ離れていると思います。
ただ、自民党改憲草案が天賦人権論を否定していることから、たとえフィクションであっても自然権を否定してしまうことは、自民党の意向に沿い、権力者に資するものとして、抵抗感がありました。
また、日本国憲法が人権規定の中で、人権の享有主体として、「国民」と「何人」を使い分けていること、最高裁の判例も「基本的人権の保障は権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべき」(マクリーン事件)と判示していることから、漸進的にでも発展してきた、前国家的な人権論を否定すべきではないのではと思ったのです。
しかし、憲法がどう言おうが、最高裁がどう言おうが、「ないものは、ない」、「王様は裸だ」ということですね。
権力批判の理屈としても、庶民が実感できない自然権思想など強い批判にはならないのだと思います。だからこそ、外国人労働者の問題については、官僚も、体面を気にした表現の工夫くらいで済ませられるのでしょう。
私も、人権を守る国家から死ねと言われても、人類普遍の思想のためなんかのためには死ねません。
それが、私の日本人としての常識です。
存在しない自然権など前提とした国家を構築するよりも、実感をもてる歴史から受け継いだ国家を前提とし、公民としての立場から、適切な政策や保護されるべき人権の範囲を決定すべきということだと理解しています。
やはり誠実で好感の持てる態度ですね。立派です。
ただ、マクリーン裁判の最高裁判決、この機会に読んでみましたけれど、tasuuさんが引用している判決文は、その後に「しかしながら」と文章が続いて、結局は、外国人に対する憲法の基本的人権の保障は「外国人在留制度のわく内で与えられているにすぎないものと解するのが相当」となっていました。
でもいずれにせよ結論が、自然権としての人権など「ないものは、ない」として、「実感をもてる歴史から受け継いだ国家を前提」とする立場に立っているから、とてもいいです!